Guten Morgen.  Die Bildung kommt nicht vom Lesen, sondern vom Nachdenken über das Gelesene. Ich  heise Amati.

さて、あまちの華麗なドイツ語も披露できたので満足だ。おはよう、あまちだ。ブログも手馴れてきた、下書きを含めなければ5稿目だろうか。少し感慨深いものがある。今日のテーマだが、昨今の文学の取り扱いについての僕の考えを述べていこうと思う。前回の記事ではオタッキーな一面を見せた。なので今回は文学部あまちの一面を見せていくぞ☆

 以下目次。

  • 文学部は甘え?分かるけどちょっと待ってくれ
  • 主観と客観 そして芽生える第三の目
  • 想像力=優しさ=???

文学部は甘えですか??

文学部進学、特に男子は周りの大人に「なんで?」と言われることが多々ある。「Youは何を学びに大学へ?」と親に聞かれて言葉に詰まった同志は多いことだろう。私はというと、ぎりぎりまで教育学部と迷っていたこともあり、文学部進学を決めたときにはしばらく両親に苦い顔をされた。「本を読みたいというのは趣味でやることであり、学ぶことではない。」そんなことは分かっている、それでも文学部がよかった。最終的には楽しさを伴わない学びに意義はないという自分なりのロジックを貫いて岐阜から九州へ遷移してきた。

改めて言うことではないが、就職という観点において文学部に来るメリットはない。教育学部なら教員に、経済学部なら企業に、法学部なら公務員にという就活ルートがあったりする(偏見)が、文学部には明確な就職ルートはない。大学が就職予備校と皮肉を言われるほど大学→就職のルートが王道化しているこの時代に文学部は確かに不利とされても仕方がないのかもしれない。

さて、ここまでが前置きである。就職で測れない文学部の強みとは、言い換えるなら本を読むことで得られる強みとは何か。それは「他者の主観」という第三の視点を養えることにある。

主観と客観 そして第三の目

主観と客観という視点は分かりやすい。自分が考えることが主観で、誰から見てもそう考えられるものが客観である。ならば「他者の主観」とはなにか? 言葉の通りではあるがあえて言語化するなら「自分とは違う主観を持った他者の視点」である。主観とは違い自分の中にはない、だけど客観ほど論理的ではない第三の視点。これを養うことができることこそが文学の意義だと言える。

文学は物語・評論どちらにしても他者の視点で話が進む。物語の主人公は様々である。正義感あふれたジャンプ主人公や勇気が出せない根暗男、恋愛脳の陽気ヒロインや無感情なクールキャラ。サイコパスな犯罪者、独裁主義の悪役、様々なキャラクターが思考とセリフを紡いで各々の心境を表現する。優秀な作者は読者を作品の世界に引き込みことをやってのける。そこで私たちは登場人物の主観を享受し、新しい視点を知識として獲得することができる。評論であっても、著者がどんな経緯で何に興味を持ちその結果どう考えるようになったかはまさに他者の主観であり、自分と比較して新たな視点を得ることができる。

つまるところ他者の主観という第三の目は自分以外の主観と同調することで発達していく。なので必ずしも文学である必要はなく映画やアニメでもいいし、ストーリー性のある音楽でもいい。大事なのはその主観に浸かることなのだから媒体はさほど重要ではない。

想像力=優しさ=視点の多さ

他者の主観を持たない人間の特徴はSNSを見ると分かりやすい。きっぱりとした言い方をすると彼らには優しさがない。いじめられている小学生に平気で「先生に言えばいいのに」なんて言ったりする。鬱で悩んでる人に平気で「なんでわざわざSNSでつぶやくの?アピール?」なんて言ったりしてしまう。彼らがそんなことを言ってしまうのは情報として相手の主観が存在しないからである。つまり、いじめられている人の心境や鬱の人の心持ちがわからないから、つい”客観的”で”論理的”な意見をぶつけてしまう。もちろん思いやりがないことも心無い意見が出てしまう一因ではあるのだが、人の気持ちが分からないことも理由の一つであることは間違いない。

誹謗中傷も他者の主観を知らないことの弊害と言える。言われる側の視点を持っていないのだ。優しさがないから、想像力がないから、視点を持たないから、目の前の相手のことを考えない言葉を選ぶことができてしまう。

また、主観と客観だけでは雑談は出来ても話し合いは出来ない。相手の視点に立って考えることができない人間は主観的意見を押し付けるか、説得力のない客観的意見を垂れるしかない。自分とは違う立場の人と話し合うなら、相手の主観とロジックは把握していなければならない。誤解されたくないのは主観を無くせという話ではない。主観・客観・他者の主観のバランスが大事という話である。自分がどう思うか、相手がどう思っているか、折り合いはどこでつけるべきか。この主観・他者観・客観が揃った話し合いは綺麗である。煽りあいや揚げ足取りとは対極的な美しい話し合い、ここをまずは目指すべきなのではないか、と確信を得たので本稿を書いてみたんだ。

まとめ^^

 文学不要論なんていう何とも悲しいものが発表されて数年が経った。しかし、僕の考えが正しければ、温かさを持った人が減ったのは文学に触れる人が少なくなったからだということも言える。そして予想が正しければ今後も温かさを持った人間は減っていく。映画の倍速視聴・漫画の流し読みなど、作品に没入することなく、ただ表面的な情報だけを得てその作品との交流を済ませる文化が本当に多い。それ自体は否定しない、コミュニティの維持のために話を合わせる努力をすることは、私からしたらむしろ尊敬できるものである。しかし、そればかりでは創作物の大きな意義である他者の主観を得られることにはつながらない。

たまにはどっぷり作品に浸かってみてほしい。文学部あまちの願い事をここに記して、今回は終わろうと思う。

あとがき

 他者の主観を持った人間を温かさのある人間と本稿では表現し、まるで”より良い人種”であるかのように書いてきたがそれも違う。何事もバランスであって、すべての視点を対等に引き出せることが大事なんだと思う。主観と客観に偏重した人が多いように思えるので今回はこんな書き方をしたが、他者の主観に視点を寄せすぎることも問題だと思う。難しいんだ、考えることって。思ってるよりも。多様性なんて言葉は、そんな便利な言葉じゃない。少なくとも僕にはまだ使いこなせない言葉だった。