季節が移ろう空の下からこんにちは、冬が待ち遠しいですね。あまちです。今回は短めです。というより、簡易的お気持ち表明。

お供の抹茶ラテも少なくなってきたのでサクッと行きましょう。今日のテーマは「優勢思想」と呼ばれるものについて。自分の考え自体はこの考えを始めた知った時から変わらないのですが、どうもネット上に自分と同じ考えの人が見受けられなかったので、自分なりの考えを記したいと思います。

 大前提、この考えには反対です。その根幹となる理由は、優性か劣性かを判断できる人間がこの世にいないと仮定できるからです。資本主義社会の中では、何かしらの基準で有能・無能が分けられることが往々にしてあります。例えば仕事ができるかどうか、友達が多いかどうか、とか。しかし実際のところ、これらの判断基準は多面的ではなく、一方的な視点になりがちです。当たり前ですが、ある会社で全く会社に貢献できなかった人が他の会社では自分のセンスを発揮して会社に貢献したり、あるコミュニティで孤独な人間が別のコミュニティでは友達に囲まれていたりすることは珍しくありません。ということで、「あるコミュニティに属している人間が有能か無能かは客観的な視点では判断しづらい」、これが一つ目の理由です。

ここまではまぁ誰でも思いつくロジックなのではないかな、と思います。だけど避けられない問題があります。そもそも優勢思想というのは元々ホームレスや犯罪を犯した人間、または高齢者や身体の不自由な人に向けられることが多いです。それで炎上する人もまぁまぁいましたね。少し過激かもしれませんが、彼らを100%擁護することは難しいです。それは資本主義社会という構造上、生産性のない人間を淘汰しようとする理念は共感こそできませんが理解はギリギリできるからです。

これに対する僕の意見ですが、そもそも彼らが生産性がないと決めつけるのが間違いだと思います。例えば50歳までホームレスだった人が、職を見つけて人並みの暮らしをする。犯罪者が更生して社会のために奉仕活動をして、それが社会に受け入れられる。そのような事例は同じような境遇の人の希望になります。社会的弱者の努力は社会的弱者を奮起させる可能性があるからです。そしてそうなる可能性を誰にも否定できない、ここが重要です。90歳の人間が世界筋肉チャンピオンになるかもしれない。盲目の人が、視界に頼らないアート作品を構築して世界を発展させるかもしれない。重ねて言うと、そうなる可能性は誰にも否定できない。人間の将来を予知できる人なんてこの世にいません。「目の前の人間が将来何をするかが分からない、判断がつかない」、これが今回の私のロジックです。このアイデアは私が殺人を否定する論理でもあります。可能性がある限り、人間には絶えず価値があるのです。

生産性のない人間を淘汰する、つまり福祉を切り捨ててその分の資本を生産のために充てれば一時的に裕福になるのかもしれません。ただ、下を切り捨てる社会には限界が来ます。自分がいつ切り捨てられる側になるかを常に恐怖しなければならない。それは近代社会思想のディストピアだと思います。

多少自分の幸福を削いでも、すべての人間がある程度受け入れられて安堵できる社会、先ほどの話と絡めるなら可能性の社会と呼べばいいでしょうか。そっちの方が胸を張って会社や学校に通えるんじゃないかなぁと思います。

皆さんはどう思いますか? 抹茶ラテも切れたので今日は終わります。ふははははっは!!!!