こんにちは、母の日にギフトを贈る習慣があるのになんでこどもの日にはなにもないんだ、と嘆いています。嘆きの魔人、あまちです。

 

 母の日と言えば、皆々様は何を贈るのでしょうか。私は誕生日プレゼントとはまた違ったアプローチを・・・と常々考えているのですが結局花と茶菓子みたいな平凡なものに落ち着きます、毎年。まぁもっとも、母の日以上に何贈るのか分からない父の日というものもありますし母の日なんて些事なものです。

本題

 母の日というのは世間話で、今日の本題は「名前」についてです。

 内容が内容なので、あらかじめ注意書きを

  • 本稿では”名前”というデリカシーな話題に触れます
  • 名付け親や名前に対しての非難の意思はありませんことをご了承願います
  • 重ねるならば、名前に関する制度に対する非難を主とした内容です

注意書きを済ませたので先に結論を済ませると私は名前というものに対してどうしても「生まれたときに与えられる最初の格差」という面があると感じてしまいます。最もこの格差というのは絶対的なものではなく、時代によって基準が変わるものかつ、個人の感覚によるものも大きい、本当にあやふやな格差です。

こんなことを書いてる以上察しはつくと思いますが、私は自分の名前が嫌いです。自己紹介も嫌いだし、挙句の果てにペンネームに匿ってもらいながら人間関係を築くときもあります。なので本名を知っている友達とそうでない友達との接触を過度に恐れています。本当に日々迷惑をかけてしまってます

重要なポイントなのですが、私の名前はいわゆる”キラキラネーム”ではありません。少し漢字が難しいとは思いますが読み自体は一般的なものだと思います。ですがそれでも自分の名前が嫌いなのは、それはもう、なんというか、生理的なものもありますが、シンプルに響きが悪いのです。

名前における「グレーゾーン」について

「グレーゾーン」というのは世間一般的に「客観的に配慮を必要とする基準には満たないものの、ある程度の生きづらさを伴うもの」だとされています。では名前における「グレーゾーン」とはなんなのかというと、説明は難しいですがいったんこう規定しました。

名前を聞いていい名前と言われることはあっても、”いい名前”をイメージしても決して出ない名前

あまち

もっと具体的に言うと「物語のキャラクターを作るときに決して用いられない名前」と言い換えてもいいでしょう。好んで使われない名前や、「パッとしない」名前…色んな言い方があると思います。

別例として、「グレーゾーン」ではなくとも、例えば活舌の悪い人に活舌を要する名前を与えることも十分名前を嫌う理由にはなりえます。今回はそれらも総括して「グレーゾーン」と呼称します。本人が苦しみを持っていることにスポットを当てたいからです。

そして「グレーゾーン」と表現した最大の理由ですが、これらの名前の苦しみは他人からはなかなか理解されがたいです。なんでも、世間のほとんどは自分の名前が大好きなのです。色んなアンケートを見回りましたが、どのアンケートであっても最低6割、平均8割の人が自分の名前が好きらしいです。当然そこにはグレーゾーンの名前の人もいるでしょう。

そう、どんな名前を持ったとしても「それはそうと自分の名前だから好き」、「親がくれた大切な名前だから好き」という人はいる…どころか世間ではそれが主流なのです。

改めて書きますが、子供が名前に不満を持ったとして、名付けた親は何も悪くありません。大切に名付けられた事実を否定する気はありません。じゃあ結局何が言いたいねん!ってなると思うので、次に続きます。

改名制度

上述した通り、世間の大多数が自分の名前に満足して生きています。しかしそうではない人もいます。当たり前です。年代2,3周離れてる子供の感性と親の感性がぴったり合うことの方が私から言わせれば奇跡です。とはいえ、合わなければ変えればいい、それだけの話だと思います。人生なにごとも不満があれば、選択して変えていけばいいのです。

そこで問題になるのが日本の改名制度、これ一度調べてほしいんですけど本当にひどいです。先に結論だけ述べると、我々には自分の名前を変える権利がないのです。(一応通称名という抜け穴もありますが、それにしても5,6年身分を隠し続けて生活するのにはかなりの苦痛と苦労が伴うと考えます)

日本の改名制度というのは実質的にLGBTやピカチュウさんのためのものであって、「グレーゾーン」に対しては効力を持ちません。これが意味するものは即ち

我々は親が長くとも数年程度で考えた名前を一生背負わなければならない   のです。

皮肉な言い方をしましたが、悪いのは制度であって人ではありません。

再度言うと、私たちは顔を変えることも、趣味を選ぶことも、学校や勤め先を選ぶことも、友達を選ぶことも出来ても、名前だけは決して変えることが出来ないのです。

変えられるものがコンプレックスであるのならば、変えればよいのです。しかし、変えられないものがコンプレックスだとしたら、それは当人に呪いをかけて、小さな歪みを作り続けます。早生まれの子供は単に成長が周りより遅いということを意味するのではありません。常に不利な競争を強いられた子供時代の過ごし方を人生の土台にして過ごすことを意味するのです。

名前もそうです。単に名前が嫌い、自己紹介が苦手という話ではないのです。その小さな歪みから始まるほころびが、やがて大きな亀裂になって人生を困難にすることもあります。

本稿は以上になります。いつになく真面目な話で、不快な部分も多かったと思いますが、こんな人もいるんだぞを伝えるのも当事者の務めだと思います。これを読んでる人の見識を広げる支えになればいいな、と思います。